めのうさとえすこな散歩

古事記と出雲② ~黄泉の国譚 比婆山その2~

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みなさまこんにちは。
オンラインショップの朝倉です。
ブログを更新しました。
しばしお付き合いください。

前回はイザナミの埋葬地候補、
安来市伯太町の比婆山と
鳥取県西伯郡南部町の
母塚山をご紹介させて頂きました。

比婆山に行かせて頂いた時、
お賽銭箱の傍らに
里宮・奥宮の御朱印がありましたので
戴いてきました。ご参考までに。
こちらは里宮。

社名が「熊野神社」ですね。
元々の社名でしょうか?

熊野はスサノヲノミコトが
「熊野の大神」といわれることから
ご祭神がスサノヲノミコトでしたり、
「熊(くま)」は「くまぐましい」の事で
「奥まったところ」を意味します。
ですので、集落から離れた場所にあったり
森や山に入った場所にある神社の名前の事が
多いようでうす。

奥宮は比婆山久米神社。
日付はサインペンで私が書きました。
_φ(。。)
印刷でもありがたい感じがします。

実は紙の大きさが微妙に違い、手作業かな?
なんて想像しました。
賽銭箱のところに
「ご自由にどうぞ」と置いてありました。
気持ちを賽銭箱に納めてきましたよ。

 

 

さてさて。

本日は前回の続き、
まだあるイザナミ埋葬地候補を
ご紹介していきます。

まずはこちらから。
かなり出雲寄りで古事記の記載に合うか
考えるところではありますがこちら。
松江市八雲町日吉にある「岩坂陵墓参考地」。

 

こちらは宮内庁の管轄地です。

宮内庁は全国の墳墓の調査を行っていました。
それは皇族の墳墓とされているのですが、
埋葬されている方を特定するのに
資料が足りないといったものだったそうです。
その数46!

その中でイザナミの墳墓の候補地は
10を超えていたそうです。
明治33年、イザナミの陵墓の
有力地とされたのがこの場所なのだとか。

実は私もここがお墓なのでは!?と
個人的には考えています。
もしくはかなり重要な場所だからこそ
宮内庁が管理しているのではと。

その根拠は神魂神社の存在です。

これは調査のため昇殿された博物館の
学芸員の方に伺った話なのですが
神魂神社の社殿の心御柱(中心の太い柱)は
赤く塗られているそうです。
朱塗りの柱なんですね。

なぜ赤く塗られているのでしょう?
私が考えるお墓の理由がそこにあります。
それがこちら。

出雲弥生の森博物館に展示されている
出雲王墓の棺(ひつぎ)です。

埋葬された木棺の底には「ベンガラ」という
赤い顔料が施されているそうです。
この赤は魔除けと考えられていたそうですね。

以前「出雲と大和」の企画展が国立博物館で
展示されていた時に合わせ、
オンラインショップの清水が
【めのうさとえすこな散歩】古代出雲の遺跡を巡る|第二回 |古代出雲の王が眠る西谷墳墓群
と題してブログをアップしていました。
今年の2月24日の記事です。
記憶にある読者の方も
いらっしゃるかと想います。

古墳の中に展示室があります。
ガラスの向こうには何も展示されていません。

ボタンを押すと・・・

浮かび上がるホログラム!
横たわる棺の中は赤色に施されています。
そして神魂神社の心の御柱、
神社の隠れた中心が朱塗り・・・
神魂神社はイザナミの魂を
鎮める神社だったのでは?

これは、古墳埋葬の再現フィギュアです。
斎主の前に赤く塗られた石が置かれています。
石は埋葬した棺の真上に置かれました。
その意味は解っていないそうです。

魂を封じ込めたのでしょうか?
悪霊になって彷徨わない様に???
疑問が残ります。

「棺(ひつぎ)」は「霊(ひ)継ぎ」と
置き換えることも出来ます。
母神様の霊を未来へ繋ぐ神社、
そんな風に思えるのです。
まあ、素人の妄想と思ってください。
(^^;)。

そして岩坂陵墓参考地の
「岩坂」の文字も気になります。

「岩坂」は「磐境」。
これもまた磐座と同じく
神様の宿る石神様に辿り着きます。

陵墓ではないにしろ、もしかしたら
千引の岩があったりするのかもしれません!
そうなれば「岩坂」の名前にも
納得がいきます。

この場所は立入禁止。
詳しい資料も見当たりません。
あの柵の向こうには祭祀の場所があり
もしかしたらその場所に祭壇の巨石が
あったりしないのかなあ・・・なんて
得意の妄想で楽しんでおります。

 

そして佐太神社。

 

三殿並立といわれる大社造りのお社が
三つ並んでいます。
境内の北隅、
向かって左の奥に石段があります。
「母儀人基社(はぎのひともとしゃ)」。

この石段を進むと在るのがそう、
イザナミの御陵です。

中央には磐座が墓標のように存在しています。
佐太神社は古事記記載の
「出雲國と伯耆國の間」とはかけ離れています。

ではなぜここにイザナミのお墓が在るのか!?

これはとある神社の宮司の方から
教えてもらったのですが、
本来はやはり、
安来にあったであろうという事だそうです。
こちらに移ったわけ、
それは砂鉄に関係があります。

砂鉄から作られる鉄は質が良く、
それに目を付けたのが「半島勢力」。
朝鮮半島から渡来してきた人たちです。

水木しげる氏の
古事記の漫画にも描かれているのですが
半島勢力は西日本の良質な砂鉄に目を付け
播磨そして吉備と
オオクニヌシの領地を奪っていきます。
安来にある山々も狙われた様です。

山を崩し砂鉄を採取していく半島勢力。
半島勢力からすれば、
「イザナミノミコト」の御陵は関係なく、
やがて、「比婆山」も崩されてしまう!
そう懸念した佐太神社は
御陵を安来の山から
佐太の地に移したのだとか。
10世紀頃のお話だそうです。

かの宮司さんいわく、
安来の御陵は「能義神社」が
祭祀を司っていたのではないか・・・
ということだそうです。

どうやら「神仏分離」の際、
「お墓=仏教」と考えられ、
イザナミの陵墓を神社から離してしまった
という過去があるとも伺います。

キッパリ離してしまったのが神魂神社。
離さず、一度は社格(神社の格式ランク)が
下位に下がってしまった佐太神社。

歴史が長くなれば、紆余曲折があり、
それを経て今に至るのかなあ、
なんてしみじみ思うのでありました。

さあ、~黄泉の国譚
黄泉比良坂~に続きます。

 

では最後に。
先月31日の夜。
松江市美保関町七類惣津にあります、
明島神社(めいじまじんじゃ)に
行ってまいりました。

こちらは9月1日に例祭があるのですが、
前日に「宵宮」といわれる前夜祭があり、
その後にお社で酒宴が開かれるようです。

写真がこちらです。

にょろにょろっとした光の軌跡は
懐中電灯を持った方が通った跡ですね。
(^^;)
面白い偶然でした。

位置を変えてもう一枚。

小島の上の灯りがお社です。
台風9号の影響で風が強い夜でした。
幟がはためいているので
お解りになれるかと思います。

 

本日もお付き合いくださいまして

ありがとうございます。

本日はこの辺で。またの機会に。

ご自愛下さいますように。

 

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