めのうさとえすこな散歩

【めのうさとえすこな散歩】古代出雲の遺跡を巡る|第一回 銅剣出土数358本!銅鐸6個!銅矛16本!出土|荒神谷遺跡遺跡

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皆様こんにちは。
オンラインショップ担当の清水と申します。

東京国立博物館におきまして「出雲と大和」展が開催されております。
現在、出雲大社に隣接する古代出雲歴史博物館はリニューアルのため休館しており、その中でも重要な展示物は東京国立博物館の「出雲と大和」展に移動しています。

この読み物では現在東京にある出雲の国宝や重要文化財が出土された土地について知識を深めて頂き、「出雲と大和」展をより楽しんで頂けると幸いです。

また、「出雲と大和」展 特設ミュージアムショップにおきまして、いつもは島根県・出雲の店舗でしか見ることが出来ない特別な勾玉たちも限定数ですが、出品しておりますので、是非、この機会にお出かけください。

特別展|日本書紀成立1300年『出雲と大和』の詳細についてはこちらまで

それでは、第一回は銅剣(どうけん)358本、銅鐸(どうたく)6個、銅矛(どうほこ)16本が出土された荒神谷遺跡を紹介します。

荒神谷(こうじんだに)遺跡の魅力

銅剣の出土本数

荒神谷遺跡が発見されるまでに全国で見つかった銅剣の本数は約300本

それに対して、荒神谷遺跡で発見された銅剣の本数は358本と1ケ所の遺跡で全国の出土本数を上回るという圧倒的な本数を出土しています。


出土状況(写真は史跡の看板より)

全国初事例 銅鐸と銅矛の出土

銅剣が発見されたところから、僅か数メートルの場所で銅鐸6個、銅矛16本見つかりました。
銅矛は九州北部を中心に中国・四国地方で見つかっており、銅鐸は近畿地方を中心に東西に広がっています。
その銅鐸と銅矛が同時に出土されたのは、全国でも荒神谷遺跡だけです。

このことから弥生時代の出雲地方が九州北部や近畿地方と交流を持っていたことが推測されます。


出土状況(写真は史跡の看板より)

1987年国の指定史跡となる
1998年出土した銅剣・銅鐸・銅矛が国宝に指定される

銅剣・銅鐸・銅矛が埋められていた状況が発掘調査でわかった貴重な例であること。
弥生時代の青銅器として優れた学術資料であることから銅剣・銅鐸・銅矛が一括国宝に指定されました。

そして、その一部が現在東京国立博物館の「出雲と大和」展に展示されております。

荒神谷遺跡からわかること

銅剣・銅鐸・銅矛の生産地
・銅剣—「出雲型銅剣」ともいわれ、山陰地方でも三ケ所から同型の銅剣が発見されていることから出雲地方産という説が強い

・銅矛—矛の長さ、刃部分の特徴から北部九州産と考えられている

・銅鐸—近畿地方と考えられている

青銅器が埋納された時期は、弥生時代中期後半から後期始めと考えられており、邪馬台国が登場する以前にあたるそうです。
そして、多種類の青銅器が大量に一括して埋納された例は他になく、出雲地方に近畿地方や北部九州と同じほどの勢力が存在していたことを証明する発見になりました。

荒神谷遺跡はいつ、どうして発見されたのか?

出雲地方において、建物建てる、道を作る際に「遺跡が見つかる」という話をよく耳します。
荒神谷遺跡に関しても、1984年広域農道計画予定地に遺跡があるかどうか調べるために掘ってみると2日目に銅片が見つかり、そこから銅剣が358本発見されました。
ひとます、1984年9月で発掘調査は終わりました。

しかし、まだまだあるのではないということで、1985年7月に地表面から電波や電気を使って地下を調査したところ、銅剣が見つかったところから7メートルの地点で銅鐸6個、銅矛16本が見つかったそうです。

そして、広域農道の計画は変更され、荒神谷周辺が史跡として登録されました。

荒神谷遺跡の最大の謎!?
なぜ大量の銅剣・銅矛・銅鐸が一ケ所に埋められていたのか?

これに関しては、現在のところまだ解明されていません。
もしかしたらタイムマシーンが開発されるまで解明することのない謎かもしれませんね。

荒神谷博物館の中にいくつかの説が書かれていましたが、ネタばれになってしまいますので、気になる方は荒神谷博物館の展示室までお越し頂ければと思います。

ちなみに、歴史好きの僕が考える説(本当に個人的な説)を申し上げますと、
この荒神谷遺跡から峰づたいに西に3kmほど行ったところに「仏経山(ぶっきょうざん」と呼ばれる山がございます。
仏経山は1500年代に付けられた名前ですが、それ以前は「神名火山(かんなびやま)」と呼ばれていました。
「かんなび」とは「神が隠れこもる」という意味で、かつては神様が住む山でしたが、出雲地方から中国地方に勢力を拡大させていた戦国武将 尼子経久が尼子家の安泰を願ってこの山に12個の寺を建て、神の山から仏の山に変えてしました。

尼子経久は戦後時代を体現した武将で元々出雲を治めていた京極氏の家臣でしたが、京極氏の力が衰えると共に、実質的に出雲国の主になり、その勢力は最大で山陰・山陽地方に8カ国に勢力を伸ばすに至る下克上を絵に描いたような権謀術数に長けた戦国武将です。

徳川の埋蔵金って流行りましたよね。
ならば尼子経久の埋蔵金である可能性は考えられませんか?

もちろん、石見銀山を手中に収めていた尼子経久がわざわざ価値の劣る銅を大切に保管する意味は分かりません。
特に日本史上で最も現実主義だったこの時代に、何か神がかった魅力を感じるという理由で1000年以上昔の銅剣や銅鐸を尼子経久が集めるとは考えられないかも知れませんが、もしかしたお守り的な意味合いで集めていたのかも知れません。

そして、誰にも見つからないように人里離れた谷の奥の山の斜面にこっそり埋める。。。
広く中国地方に勢力を持った尼子経久なら出来ない話でもないと思います。

まぁ、冗談はこれくらいにしておきましょう。

実際に銅鐸は紀元前2世紀ころのもと推測されています。
紀元前2世紀といえば大人気漫画「キングダム」の時代に近いですね。
中国で数百年にも渡る戦乱の時代(春秋戦国時代)なので、日本においても記録が残っていないだけで日本中を巻き込む争いが起きていたのかもしれません。

史実としては残っていませんが、大量に見つかった銅剣がそのことを教えてくれているように感じてしまいます。

そして、その争いが日本神話の大国主神による国譲りなどの物語に繋がるっている可能性もあると思います。

荒神谷遺跡を歩く

1月の山陰地方らしい「どんより」とした寒空の下、
駐車場に車を停めて少し歩くと荒神谷遺跡を知らせる看板が見えてきました。

看板の通りに右に曲がると、、、大きな池が見えてきます。
(ちなみに左に行くと荒神谷史跡公園があります)

この池は夏になると池の鯉に餌(主に食パン)を投げ込む子供たちで賑わう「西谷池」と呼ばれる池です。
我が家の子供たちも暖かくなると「荒神谷の鯉に餌をあげに行きたい!ザリガニ釣りに行きたい!」と地元の人にも慕われている遊び場にもなっているところです。

ということで、僕も予め準備していた食パンをちぎって池に投げてみると。。。

信じられないくらい大きな鯉たちが集まってきました。
中には1メートル近いのではないか?と思うくらい大きな鯉も出迎てくれますよ。
冬場は活性が落ちていますが、西谷池の夏の鯉の食欲はすごいんです。

当たり前ですが、魚釣りは禁止です。

しかし、釣っていいものもあります。
それはザリガニ。
この西谷池と繋がっている小さな浅い池にザリガニがたくさんいて、夏場はザリガニ釣りをしている親子で賑わっています。

ちなみに、ザリガニのキャッチ&リリースは禁止となっておりますので、厳守の程宜しくお願い致します。
(ザリガニは古代ハスの新芽や日本固有種の生き物を食べてしまう外来種です。釣ったザリガニは持ち帰るか博物館スタッフに渡して下さい。)

ここには書かれていませんが、過去数回子供とザリガニ釣りをした経験上、最大の注意点は蜂です。
ここでザリガニ釣りをしていると足の長い蜂が出る印象が強いのです。
山が近いので仕方がないことではあるんですけどね。

そして、池の周りを歩いて対岸側に出ると谷が見えてきます。
ここが、国宝を生んだ谷です。

この水がはってあるところはハス池と呼ばれ、6月から7月にかけて一面のハス畑になります。
写真の素材がなかったので、写真を付けることが出来ませんが、是非インターネットで「荒神谷 ハス」で検索してみて頂きたいです。

このハスは古代ハス(2000年ハス)と呼ばれ、2000年前のハスの種から育てられたハスです。

この左手に荒神谷博物館があり、遺跡があるのはこのハス池の方です。

荒神谷博物館を背に遺跡の看板に従って歩いていくと。。。見えてきました!

銅剣・銅矛・銅鐸の出土現場(再現)
階段を登り上から見下ろす形で出土現場を見ることが出来るようになっております。
そして、そこから見た写真がこちら

銅剣・銅矛・銅鐸はもちろんレプリカですが、出土を現場を再現した風景が広がっております。
なかなかリアルなので見ごたえがありますよ。

しつこいようですが、実際に出土したものは2020年3月8日(日)まで東京国立博物館の特別展「出雲と大和」に展示されておりますので、お近くの方は是非お越しになって下さいませ。

【余談】荒神谷史跡公園

荒神谷史跡公園の方には弥生時代の住居を再現したものがあり、中に入ることも出来ますよ。

中は割りとしっかり広めな空間になってます。

荒神谷遺跡にいらして2000年前の思いにふけってみてはいかがでしょうか。

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