めのうさとえすこな散歩

【めのうさとえすこな散歩】古代出雲の遺跡を巡る|第二回 |古代出雲の王が眠る西谷墳墓群

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皆様こんにちは。
オンラインショップ担当の清水と申します。

東京国立博物館におきまして「出雲と大和」展が開催されております。
この読み物では現在東京にある出雲の国宝や重要文化財が出土された土地について知識を深めて頂き、「出雲と大和」展をより楽しんで頂けると幸いです。

また、「出雲と大和」展 特設ミュージアムショップにおきまして、いつもは島根県・出雲の店舗でしか見ることが出来ない特別な勾玉たちも限定数ですが、出品しておりますので、是非、この機会にお出かけください。

特別展|日本書紀成立1300年『出雲と大和』の詳細についてはこちらまで

それでは、第二回は古代出雲の王が荒神谷遺跡を紹介します。

西谷墳墓群の特徴

総数32基の墳墓群

西谷墳墓群は1953年の多量の土器が出土したことにより発見されました。
出雲市教育委員会の調査によると弥生時代後期から古墳時代中期(2世紀後半から5世紀頃)にかけてつくられた古墳群であることが分かりました。

山陰地方独特の墳丘墓「四隅突出型墳丘墓」

32基ある墳丘墓のうち6基は「四隅突出型墳丘墓」と呼ばれ、弥生時代後期(西暦2、3世紀頃)の山陰地方だけに見られる独自の形をした墳丘墓です。

この墳丘墓は四隅のコーナーが張り出した奇妙な形でその表面には石が張られており、突出部分を含め50mを越える大きさの3号基墓は弥生時代の墳丘墓としては全国で最大級のものです。

誰のお墓なのか?

調査により出土した土器などから、この土地に住む権力者は吉備地方(現在の岡山県と広島県東部)や北陸地方と密接な交流を持っていたことが明らかになっています。
さらに、近くに荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡で出土した多量の青銅器が埋納された後につくられた墳墓群であることもわかりました。

近年この墳墓群の北側にあたる出雲平野では日本海沿岸では最大級の弥生時代の集落跡が明らかになりつつあります。
このことは、当時の出雲地域に大きな勢力が存在していたことを証明し、この勢力を治めていた出雲地方の王が西谷墳墓群に葬られているのではないかと考えられています。

西谷墳墓群を歩く

前回の荒神谷遺跡も含めて出雲平野の南側に位置しております。

大まかな地図なのでグーグルマップやカーナビに従っていくと立派な建物が見えてきます。

この建物は「出雲弥生の森博物館」
入館料は無料にも関わらず、立派にして圧巻の展示内容に大満足な博物館ですよ。
(あえていえば、展示物の一部が東京国立博物館の「出雲と大和」展に貸し出し中だったため、その展示物の場所が写真になっていました。)

この博物館のすぐ近くに西谷墳墓群があります。

まず、この看板で気になったことが!
それは「弥生の出雲王に出会える」と書いてあるではないですか。
正直「何を言っているの?」と思いましたが、本当に古代出雲王に出会うことが出来るのでしょうか!?

それでは、
大きな墳丘墓としては1~6号の墳丘墓があり、1号から順番に見ていきます。

まず階段を登っていくと気になる看板を見つけました。

こういう看板にすぐに食いついてしまうのが僕の悪い癖ですが、
「古墳にボールが飛んでくるってどういうこと?」と空を気にしながら歩いていくとすぐに答えは見えてきました。

出雲商業高校の野球部のグランドが西谷墳墓群と併設していますね。
確かに右打者がレフト方向に引っ張れば西谷墳墓群まで飛ばすことは難しくない距離です。
想像するに、、、出雲商業高校の野球部員はレフト方向に引っ張ると顧問の先生に怒られることが推測されます。。。

西谷1号墓

小形の四隅突出型墳丘墓です。
弥生時代後期(2世紀後半)頃につくられたといわれています。

西谷2号墓

西谷2号墓は1800年前の四隅突出型墳丘墓を復元した施設となっております。
僅かに残っていた墳丘を大切に保護しながら当時の姿に復元したものです。

せっかくなので、復元された墳丘墓の中に入ってみましょう。

中は展示場になっている雰囲気ですね。
王墓の調査や当時の王の権威について書かれた展示物がありました。

そして、出会いました!「弥生の出雲王」に!

その出会いの場はこちら

えっ?誰もいない?
しかし、備え付けのボタンを押すと、、、

古代出雲王が浮かび上がってくるではないですか。
残念ながらお話をすることは出来ませんでした。
しかし、1800年前の埋葬当時を再現したもので、埋葬施設の中にガラスの勾玉や管玉が一緒に出土されたそうです。

西谷3号墓

あまりに大きく、そして、高い位置にあったため全体像を撮影することが出来ませんでしたので、この写真から推測して頂けると幸いです。

この3号墓も上に登れるようになっていましたので、登ってみることにしましょう。

上にも広いスペースがあり、埋葬状態を再現したものがありました。

この3号墓がもっとも大きい墳丘墓となっていること、かなり手厚い埋納施設になっていることから、この時期の出雲王がもっとも権威を誇っていた頃ではないかと想像出来ます。

きっとこのお墓は出雲のカリスマのお墓なのでしょう。
もしかしたら、大国主命のお墓?なんて想像を膨らましてしまいますね。

西谷4号墓と5号墓

4号墓もかなり大きなサイズの墳丘墓となっていて、隣の5号墓とくっついたような地続きになっていました。
この2つの墳丘墓は隣接した形になっていました。

主な墳丘墓は以上です。

日本書紀や古事記に書かれている神話も言い伝えに基づいて書かれたものであるはずですので、中国の書物「魏志倭人伝」に書かれている卑弥呼が天照大神と同一人物ではないとも言い切れない。

ということは、このお墓は神話に出てくるいずれかの神様の墓であることを否定することは出来きないと思います。
こればかりは、タイムマシーンでもない限り証明する方法はないので想像するしかありませんが、この西谷墳墓群から歴史のロマンを感じてなりません。

皆様も機会があれば是非訪れてみて下さい。

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