みなさまこんにちは。
オンラインショップの朝倉です。
ブログを更新しました。
しばしお付き合いください。
「めのうさとえすこな散歩」のブログで
もう1本書かせて頂いてます「古事記と出雲」。
八岐大蛇退治編がいよいよ終盤に入りました。
大蛇退治はスサノヲさんが主人公といいますか
メインで話が進んでいる訳ですが
出雲のアチコチにスサノヲを追いかけてみると
改めて興味深い神様だなあと
思うことが多々あります。
まず、伝承地が多いです。
しかも同じ伝承があっちにもこっちにも
存在したりしてます。
出雲では悪さをしていません。
姉神アマテラスの天の国、
高天原に居着いた時は、
田の水路を埋めてめちゃくちゃにしたり
神殿に大便をしたり、馬の皮を剥いで
機織り小屋の屋根に穴を開け
放り込みました。
驚いた機織女(はたおりめ)は機織り具が
体に刺さり命を落としてしまいます。
そしてアマテラスは岩屋戸に隠れてしまいます。
太陽神が隠れたわけですから
この世は闇に包まれ、悪いこと、悪いものが
はびこってしまいます・・・(T_T)
ですが出雲に天降りしたスサノヲは英雄です。
そんなスサノヲさんの足跡(そくせき)を
追ってみたいと思います。
「古事記と出雲」で取り上げたスサノヲの
スピンオフブログとでもいいましょうか、
こちらも何回か続きますので
楽しんで頂けたらと思います。
今回は人気の神社でもあります、
韓竈神社を再度紹介させていただきます。
再度というのは実は一度「古事記と出雲」で
紹介させて頂いたんですね(^^;)
昨年10月にUPしたブログです。
今回は韓竈神社をメインに
お送りしたいと思います。
古事記と出雲⑧と内容が被ってしまう箇所も
あるのですが、悪しからずご了承ください。
さて件の韓竈神社。
前出のブログをお読みくださった方も
いらっしゃるかも知れませんが、
もう一度ご案内を。
この地図ですと臨場感に欠けますので
航空写真にしてみますね(^^;)
人里離れた山の中です・・・
韓竈神社といえばこの参道。
幅45センチだそうです(^^;)
私が神社に興味を持ち始めた
6~7年ほど前はネットでヒットもせず、
神社の噂は耳にしていましたが、
場所もわからず、謎の神社でした。
メディアで取り上げられたり、
SNSで目にするようになり
今では週末には参拝者とすれ違ったりと
昨今「秘境」といわれる神社が
認知されている感があります。
個人的はいい事だと思っています。
傍らの看板には
「古老伝」によると
「植林法」や「鉄器文化」を開拓された、と
書いてあります。
山の上に船???
違和感が否めません。
手前に川がありますので
来れないことは無いと思いますが
やっぱりちょっと違うかなと(^^;)
そこで、こういったことか!と
自分なりに納得しました。
つまり、これはスサノヲの
「モニュメント」なんだと!
スサノヲの偉業の軌跡がここに在ることの
証明なのではいでしょうか?
スサノヲは「渡来神」という見方も
あります。半島から渡ってきた
大陸出身の神様だとか、
ズバリ、モンゴル出身だ
なんて説もあるようです。
または、日本と半島を船で往来し
様々な文化を伝えたとみる見解もあります。
その論議は置いておくとして
「韓竈(からかま)」の社名に着眼してみます。
「韓(から)」は朝鮮半島を意味するのでしょう。
そして「竈(かま)」は
「溶鉱炉」という説が有力です。
合わせると「朝鮮半島由来の溶鉱炉」と読め
製鋼に関わる神蹟と考えることが出来ます。
この辺りには銅鉱山があったようです。
後世にこの偉業を伝える銅像の様な記念碑、
またはスサノヲが目を付けた要所に
モニュメントになる目立つ巨石が
偶然にあったということでしょうか?
さらに伝承を追いかけると、その昔
「帆柱岩」というのがあったそうです。
ネットで探すと「あれ?」と
誤解している記事もあり、
今回ちょっと調べてみました。
そうすると無視出来ないのが
鰐淵寺の近くにある諏訪神社 出雲市別所町72。
ご祭神はタケミナカタと国引き神話の神様です。
不思議な組み合わせですね。
この諏訪神社の説明に、大変面白い逸話が
書かれています。
かいつまんで説明しますと
「鰐淵寺を開いた知春上人が信濃の国より
来られた時、三人の老人が船で出迎えた。
その老人たちは旅伏、唐川、別所の白滝権現の
神様たちで、船を3つに分け飛び去った。」
3つに分けられた船具はそれぞれ
別所:帆柱
旅伏:帆筵(ほむしろ)
唐川:船体
「唐川」は韓竈神社の住所ですので
先程の岩船は3つに分けられた
船の一部という事になります。
伝承が変わりました(^^;)
別所は前出の諏訪神社のある住所です。
全国の諏訪神社を回られている「八ヶ岳原人」
という方のブログで、この神社の参拝の回で
地元の方に話を伺っているのですが
以前は「帆柱山」という山があり
採掘のため神社が現在の場所に遷座された。
とありました。
確かに帆柱岩は韓竈神社の岩船の説明に
「以前はあったが土砂崩れで無くなってしまった」
といった事があったと記憶しています。
諏訪神社前の看板に
「高さ54メートル、周囲15メートルの
立岩である。」
とありますので屹立する岸壁の様な
立岩だったのでしょう!
見てみたかったですね(^^;)
では旅伏には岩は在るのでしょうか?
あります。
旅伏山の山腹、9合目程に都牟自神社
(つむじじんじゃ)があります。
出雲市国富町 1
その参道は麓の懸神社(あがたじんじゃ)の
境内から伸びている登山道です。
懸神社 出雲市国富町 2。
帆筵岩はこの神社と神社の間、
参道にあります。
1時間半近く登りました。
こちら。
都牟自神社まで120~150mほどの所に
鎮座してました。
鰐淵寺は大変な勢力を持っていたお寺で
寺領も中世より減ったとはいえ広大です。
出雲市北側に連なる北山もその大部分が
鰐淵寺の寺領と聞いたことがあります。
神仏習合の際、出雲大社と深く関係し
当時はお寺さんが神社を管轄するという
図式だったでしょうから、かなりの
勢力だったのではと推測します。
スサノヲの伝承が鰐淵寺開創の伝承になっている
ちょっとした不思議・・・
お寺が神社の伝承を塗り替え
勢力分布を書き換えようとしたのか?
なんて想像せずにはいられません。
出雲大社銅の鳥居に
「素戔嗚尊は雲陽大社の神なり」とあり
一説には「雲陽大社」=「出雲大社」と考え
「スサノヲは出雲大社の主祭神」と
読むことが出来ます。もちろん異説がありますが。
鳥居は1666年に建てられました。
神仏習合の風潮が出雲大社にも
及んだでしょうから
出雲大社が仏教で「牛頭天王」といわれる
スサノヲを祀り、その出雲大社を
鰐淵寺が管理する。
当然、伝承は仏教系に傾き・・・
私の妄想ですが、そんな事があっても
おかしくはないのかなと感じました。
そうそう、前出の「帆筵岩」。
その昔、船の帆は「布」で無く
「筵(むしろ)」だったそうです。
むしろは出雲の名産でした。
古代出雲人が海洋民族だったかも?なんて
根拠になりそうですね。
本日はスサノヲのお話のつもりが
鰐淵寺の伝承になってしまいました。
悪しからずご了承ください㎜(_ _)㎜
最後に出雲大社の銅鳥居の
「雲陽大社・・」の件の三浦佑之先生の説を
貼っておきます。この内容は氏の集大成、
「出雲神話論」の中にも書いてあるようです。
鳥居漢文 読み解くと…
お付き合いくださって
ありがとうございます。
またの更新をお楽しみに。
ご自愛下さいますように。